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三重の廃校・旧九鬼小学校は現在入れない?現地取材で分かった今の姿と、ブリ漁で栄えた美しい漁村の記憶を写真で振り返る訪問記

九鬼小学校のブログアイキャッチ画像。閉ざされた校門のスコアボード越しに、静かに佇む木造校舎と遊具を写した情緒的な写真。中央にタイトルと「急階段は、135年前の『誇り』に会いに行くためのプロローグ」というキャッチコピーが入っている。 廃墟・廃線跡

「古い木造校舎が美しく残る廃校」として知られる旧九鬼小学校。今、内部を見学することはできるの?

その答えですが、残念ながら現在は校舎の中に立ち入ることはできません

でも、どうかガッカリしてページを閉じないでください。

たとえ校舎の扉は閉ざされていても、あの100段以上ある急階段を登りきった先に待っていたのは、言葉を失うほど美しい「漁村の誇り」そのものでした。

青空と緑の山を背景に、静かに佇む旧九鬼小学校の木造校舎。誰もいない広い校庭と、歴史を感じさせる重厚な建築美。
息を切らして登り切った先に現れる、九鬼の誇り。静まり返った校庭には、今もかつての子供たちの賑わいが溶け込んでいるかのよう

135年という長い年月、九鬼の海を見守り続けてきた校舎は、今や静かな聖域。

かつてブリ漁で潤った村の人たちが、子供たちのために贅を尽くして建てた「海の城」は、誰もいなくなった今もなお、凛とした気高さを放っています。

「急階段を飛び跳ねて登る子供たち」に思いを馳せながら、私が現地で切り取ってきた入れないからこそ美しい九鬼の今の姿を、当時の記憶と共にそっと紹介したいと思います。

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旧校舎は現在立ち入り禁止。それでも現地を訪れる価値がある!

「せっかく尾鷲まで行くなら、あの美しい木造校舎の中を歩いてみたい!」と思うのは当然ですよね。

ですが、旧九鬼小学校の校舎内への立ち入りは一切禁止されています

入り口は固く閉ざされ、静まり返った空気。

正直に言えば、目の前で「拒絶」されているような切なさはあります。

じゃあ、わざわざ行っても意味がないの?

いえ、そんなことはありません。

むしろ、中に入れないからこそ際立つ魅力がそこにはありました。

外からでも一目見ればわかるその圧倒的な建築美。

校庭の半分埋まったタイヤの遊具越しに見る、旧九鬼小学校の大きな木造校舎。剥げかけた外壁の質感が歴史の深さを物語っている。
誰もいない校庭と、威風堂々とした木造校舎。静寂がこの場所の美しさをより一層際立たせている

廃校というより、まるで「海を守る砦」のような威風堂々とした佇まいは、外観を眺めるだけでも十分すぎるほどの衝撃を私に与えてくれました。

それに、この場所から見下ろす九鬼の町並みがまた、たまらないんです。

山が迫り、穏やかな湾が広がり、ぎゅっと身を寄せ合うように並ぶ瓦屋根の家々……。

高台(旧九鬼小学校付近)から見下ろす九鬼町の全景。手前に密集して並ぶグレーの瓦屋根の家々、その奥に穏やかな湾、そして背後を囲む深い山々が写っている。
これぞ九鬼の原風景。この穏やかな湾こそが、かつてのブリ漁の舞台であり、この瓦屋根の一つひとつが、漁村の繁栄を支えた人々の記憶そのもの

立ち入り禁止という不自由さがあるからこそ、この風景が余計に尊く、当時の繁栄がそのまま冷凍保存されているような不思議な感覚に陥ります。

「入れない」という壁の向こう側に、かつての漁村の誇りが今も静かに、大切に守られている。

そんな空気を肌で感じるだけでも、九鬼まで足を運ぶ価値は十分すぎるほどにありました。

100段以上ある急階段を越えて。窓越しに見た「海の城」の現状

九鬼小学校へ辿り着くには、まず100段以上ある、目の眩むような急階段を登りきらなければなりません

これが、想像以上にハード!

下から見上げるように撮られた、古びた石造りの急峻で長い階段。両側には年季の入った金属製の手すりと、苔むした石垣がある。頂上には、古い建物の一部、フェンス、そして青空に映える大きな木々が見える。
これが、九鬼小学校へと続く急階段。実際に見上げると、その急峻さに、登る前から息が切れそうになる

一歩踏み出すたびに息が切れますが、ふと「当時の元気な子どもたちは、ここを飛び跳ねるように登校していたんだろうな」なんて想像すると、少しだけ背中を押される気がします。

ようやく登りきった先に現れるのが、あの立派な木造校舎です。

まず目に飛び込んでくるのは、「尾鷲市立 九鬼小学校」と書かれた立派な看板。

手前に大きく映し出された、文字が剥げかかった「九鬼小学校」の古い門柱。背景には、ぼんやりと静かに佇む木造校舎と校庭が写っている。
剥げかかった看板と、静まり返った校舎。かつての子どもたちの賑わいが、今もこの文字の奥に閉じ込められているような気がした

かつてここが町の中心であり、誇りであったことが一瞬で伝わってきます。

校舎は今どき珍しい総木造ですが、驚くほど綺麗な状態で残されています。

校舎の前には開校100周年を祝う石碑も残っていました。

「開校百年」と力強く刻まれた大きな石碑。背景には、かつての子どもたちを見守ってきた九鬼小学校の木造校舎と木の枝が写っている。
100年の節目を祝う賑やかな声が、かつてこの場所に響いていたことを証明する石碑。石に深く刻まれた文字は、閉校した今もなお、その歴史と誇りを失っていない

ただ、よく見ると一部分だけが黒く変色していたり、入り口の奥が真っ暗だったりと、時が止まった場所に特有の「なんとも言えない気配」が漂っているんです。

校門の先、講堂と校舎が一体となったその姿は、廃校という言葉からイメージする寂しさを通り越して、どこか神聖な砦のよう。

フェンス越しにレンズを向けながら、静まり返ったその空間に、しばし言葉を忘れて見入ってしまいました。

なぜこれほど豪華なのか?ブリ漁の繁栄と九鬼水軍の誇りが生んだ名建築

どうして小さな漁村に、立派な校舎を持つ学校があるの?

その答えは、この町が積み上げてきた凄まじいプライドにありました。

まず、九鬼という町はかつて、ブリの大敷網(おおしきあみ)漁でとてつもない繁栄を極めた場所なんです。

一度ブリが入れば村が建つ」と言われたほどの莫大な富。

その財力が惜しみなく注ぎ込まれたのが、明治7年に設立され、昭和12年に建て替えられたこの校舎でした。

当時の村の人たちにとって、学校を立派にすることは「自分たちの成功の証」であり、何より未来を担う子供たちへの最高の贈り物だったのでしょう。

今でも九鬼町では漁が盛んに行われており、全盛期ほどではないがブリが主に水揚げされています。

穏やかな九鬼湾の波止場に一列に並んで停泊する多くの漁船。水面に船影が写り込み、海岸沿いには山々と昔ながらの家並みが広がっている。
今も確かな営みが息づく九鬼の日常風景。かつて村を潤したブリの記憶は、今日もこの穏やかな港から海へと繋がっている

そして、もう一つの理由が「九鬼水軍」の血筋です。

ここは戦国時代、織田信長や豊臣秀吉を支えた最強の水軍、九鬼嘉隆(くき よしたか)率いる九鬼水軍の発祥の地

校舎がどこか城郭を思わせる立派なデザインなのも、武士としての誇りが町の人たちのDNAに刻まれていたからかもしれません。

135年以上の歴史を背負うこの建物は、ただの教育施設ではなく、九鬼という町が最高に輝いていた時代の記念碑そのもの。

そう思うと、窓枠の一つひとつ、瓦の一枚一枚に、当時の人たちの「どうだ、いいだろう!」という誇らしげな声が宿っているような気がして、見上げているこちらの背筋も自然と伸びる思いがしました。

入れないからこそ色濃く残る、子供たちがいた「あの日」の気配

中に入ることができないからこそ、窓越しに覗くその景色は当時のまま残されており、まるで時間がピタリと止まってしまっているかのようでした。

真っ暗な校舎の窓に目を凝らすと、そこには驚くほど多くの「あの日」が残されています。

一番胸を打たれたのは、窓ガラスに貼られた色とりどりの魚たちの切り絵

旧九鬼小学校の窓ガラス。子供たちが作った青や黄色、黒など色とりどりの魚の切り絵が数枚貼られており、ガラスには外の山並みと空が美しく反射している。
窓辺に残された、漁師町の子どもたちらしい足跡。誰もいなくなった教室を、今も彩り続けている小さな住人たちである

かつてこの学校に通っていた子が、一所懸命に作ったものでしょうか。

漁師町らしいその装飾が、今もなお外の海を眺めるようにそこにあり続ける姿には、なんとも言えない愛おしさを感じます。

別の部屋を覗くと、廃校のアイドル・人体模型がポツンと立っていました。

旧九鬼小学校の理科室。手前の実験台の上に、筋肉や内臓が剥き出しになった人体模型が立っている。奥には天秤や理科の備品が並び、窓から差し込む光が暗い室内を照らしている。
誰もいない理科室の主。窓から差し込む光を浴びながら、今も静かに授業の始まりを待っているかのよう

机や椅子もそのままに残されていて、まるで人間がいなくなった後も、先生が静かに授業を続けているかのよう。

残留物が多すぎるがゆえに、一瞬ここが廃校であることを忘れてしまいそうになります。

校庭の隅に目を向ければ、草に埋もれかけたブランコが。

手前に錆びた黄色のブランコがあり、足元が雑草や苔に覆われた旧九鬼小学校の校庭。背景には横長に続く木造校舎が静かに佇んでいる。
誰かに漕いでもらうのをずっと待っているような、止まったままのブランコ。風が吹いても揺れないその重みに、過ぎ去った時間の長さを感じる

そして、壁に掲げられた「全力で」という力強い言葉。

窓ガラス越しに見える、「全力で。」と縦書きで力強く書かれた校内掲示。ガラスには外の木々が重なるように反射しており、閉ざされた教室の静寂を感じさせる。
かつてこの教室で、全力で学び、全力で遊んだ子どもたちへのエール。主のいなくなった今も、この言葉だけは当時のまま、窓の向こうで凛と輝いていた

もしここが自由に立ち入れる場所だったら、これほど綺麗な状態では残っていなかったかもしれません。

物理的な「拒絶」が、結果として子供たちの活気や当時の温度感を、真空パックのように閉じ込めている。

誰もいないのに、誰かの気配がする。

そんな不思議な感覚に包まれながら、私はしばらくの間、校舎の外側からそっと、守られた聖域を見守り続けました。

旧九鬼小学校を訪ねる方へ|アクセスと九鬼の町歩き

最後に、この美しい廃校へのアクセス情報を載せておきます。

• 鉄道: JR紀勢本線「九鬼駅」から徒歩約20分または九鬼駅から路線バスで約5分、「九鬼町」停留所下車後徒歩すぐ

九鬼駅から学校までは、のんびり歩いて20分ほど。

駅を降りた瞬間から、懐かしい潮の香りと、迷路のような路地の風景があなたを迎えてくれます。

・車:尾鷲市内から一般道で約15分

付近には駐車場がないため、訪れる際はできれば公共交通機関を利用した方が良いでしょう。

100段の階段を登るのは少し大変ですが、そこから見下ろす九鬼の町並みは、どんな疲れも吹き飛ばしてくれるほどの絶景です。

旧校舎のこれから。解体か、保存か。私たちができること

この先、この立派な木造校舎はどうなってしまうのでしょう。

解体されるのか、このまま保存され続けるのか。

閉校から年月が経ち、これほど立派な木造建築を維持し続けるのは決して簡単なことではありません

かつての、ブリがもたらした繁栄を知る世代が少なくなり、町が静かになっていく中でこの校舎もいつか解体されてしまうのかもしれません。

個人的にはこの素晴らしいロケーションを活かし、宿泊施設や地域住民の交流施設として再生できれば……と願わずにはいられません。

かつての教室がカフェやホテルになり、再び誰かの笑い声が響く。

そんな未来があれば、どんなに素敵でしょう。

もちろん、それを実現するためには莫大な労力と費用が必要となることも事実であり、現実的ではないのは明らかです。

倉庫のガラスに映る、旧九鬼小学校の校庭と木造校舎。倉庫の中には古いスコアボードが残されており、数字「0 0 0 0」が表示されている。奥には草に埋もれかけた錆びたブランコが立っている。
ゼロのまま止まったスコアボードが物語る、閉校後の動きのない時間。錆びたブランコと凛と立つ校舎を見つめながら、その再生が決して簡単ではない現実を改めて思い知らされる

「中に入れない」という少しの寂しさはありますが、だからこそ守られている静寂と、漁村の気高き記憶。

私たちが今現地を訪れ、写真を撮り、そのようなこの場所の記憶を語り継ぐ

いつか建物がなくなってしまったとしても、そうすることが九鬼の町に刻まれた「記憶」を次世代に繋ぐ小さな、でも確かな一歩になるのではないか、と思うのです。

あなたもぜひ、自分の足でその空気を感じに行ってみてください。

きっと、写真では伝えきれない「九鬼の誇り」が、そこで静かに待っているはずです。

九鬼小学校に関するよくある質問

九鬼小学校に関して、実際に現地に行って気づいた、知っておいた方が良いことをQ&A形式でまとめてみました。

Q
校舎の中や敷地には、本当に一歩も入れないの?
A

校舎内に入ることはできませんが、校庭までなら入ることができます

老朽化による安全面への配慮もあり、マナーを守って外観を鑑賞するのが今のルールです。

Q
車で行く場合、停める場所はある?
A

学校専用の駐車場はありません

町の入り口にある、九鬼コミュニティーセンターに隣接する駐車場は事前予約制ではありますが利用できます。

Q
いつ頃建てられたものなの?
A

学校自体の設立は1874(明治7)年まで遡りますが、現在の木造校舎が完成したのは1937(昭和12)年のこと。それから2010(平成22)年に閉校するまで、135年以上にわたって子供たちの成長を見守り続けてきました。

Q
撮影する際、ドローンは飛ばせる?
A

規制があるだけでなく、静かな漁村ですのでプロペラ音はかなり響きます。撮影を希望する場合は、必ず事前に市役所や地元の自治会へ確認を取り、住民の方々の生活を最優先にするのが鉄則です。

Q
あの「人体模型」は今も見える?
A

はい、窓越しにその姿を確認できました。まるで今も授業を続けているような独特の存在感があるので、ぜひ探してみてください。

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